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好きな人を 思い出す夜は

 

大好きだった 人のことを考えて

たくさん たくさん 泣く夜に。

 

むかし  好きだった 人のことを思い出して

 

もう 死んでしまった

 

ということを すっかり忘れてしまってた。

 

薄暗い 小さな 森のような 場所を見ると

「大好きだった人が 歩いてくるんじゃないか」と

ぼうぜんと 立ち尽くす。

 

そのまま 目を閉じると

まだ わたしたちが 同じ世界にいた景色が フラッシュバック。

 

自分を信じていなかった 若い時のわたしは

「大好きな人のことを とても愛している」

ということに 気づいていなかった。

 

「なんて バカ な子」

「救いようのない 根性なし」

 

弱いわたしは

大好きな人の前に立つと

いつも 言葉が詰まり

いうべきことがなんなのか 分からずに

つまらないことしか言えない

 

そんな自分が 大嫌いで

 

だけど それでも

 

目を合わせるだけで

時が止まったような 感覚になる

 

「そんな人がこの世にどれだけいるかって?」

考えてみたら すぐ分かることだ

 

「わたしはこの人を愛してる 」

ということを。

 

どんどん 歳を重ねていく わたし

いつまでも 歳をとらない 大好きな人

 

あなたとの距離が どんどん遠く

離れてしまうことが ほんとうに寂しくて

 

ただただ わたしは

あなたが 歩いてくるかもしれない

薄暗い森を 思い描いて

 

静かに 静かに

涙の中に 堕ちて眠るんだ。

アイデンティティは、「あの神」を隠す装置

Identity (アイデンティティ)の超・分かりやすい日本語解説があったので、引用してみます。(安冨歩『ありのままの私』より抜粋)

 

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同一であること。同一性。一致。
同一人であること。本人であること。正体。身元。
独自性、主体性、本性。
帰属意識
恒等式

 

これらの意味をひとつの言葉で括るのは、日本語としては意味不明です。
特に「同一」であることと、「独自性」と「帰属意識」とが同じ言葉というのは、わけがわかりません。(中略)
そして散々考えた挙句、どうやらユダヤ教キリスト教といった、一神教の「神」という言葉を隠すための装置なのではないか、と思うようになりました。

一神教では、神は、あの神、しか認めません。共に信者であるなら、「同じ」「同一の」神を信じているはずです。
「同一の」神を信じるなら、つまり、信じている神が互いに「一致」するなら、○○教徒という同じ集団に「帰属」しているわけです。
一神教の信者の「本性」は、あの神だけを信じる、ということです。
そして各人の「本性」はその神から与えられるわけで、その「本性」に、その人自身のあり方が「一致」していたら、それはその人「本人であること」あるいは「同一であること」が確認できます。
その人が、その本性に一致しているなら、その人は「独自性」を示しており、「主体性」を確保しています。
恒等式」というのは、等号の左右の式の値が常に「一致」している式、という意味です。

 

(中略)つまり、この言葉は、一神教の神、を前提とした概念を表しているのです。

 

(中略)つまり彼ら(一神教の信者)が「アイデンティティ」というとき、暗黙のうちに「あの神」を想定しているけれど、それは口にしないのです。

なので、このような文化的前提を置いていないヨソモノには、わかったような、わからないような謎の概念になります。

 

(欧米の美術作品を観るとき、この『アイデンティティ』のニュアンスをちゃんと理解していないと、中身のある鑑賞なんてできっこないと、わたしはずっと思っていました。

 

でも今まで生きてきて、ここまで分かりやすく日本語にしてくれた本に出会うことがなかったから、ずっとモヤモヤしてたんですよね。もう少し早くこの本に出会いたかったな…😭)

 

そういえば、昔サカナクションの曲で「アイデンティティ」というのがありました。

 

 

アイデンティティがない自分自身について思い悩む人の曲なのですが、最終的には「中学生の頃の純粋な自分にこそ本当の自分らしさがあった」というオチなのです。

中学生の自分にアイデンティティを見出してたら、今後どうやって社会のなかで生きていくんだ!?とツッコミたくなりますが、こういう曲が流行るのが日本、つまり『ネオテニー・ジャパン』たる所以なのだなとしみじみ思ったのでした。

ポップミュージックも現代アートも、抱えてる問題はさして変わらないということなのでしょうか。

水の揺らぎにまつわる思い出

 

午後から風が強くなってきた。

総武線沿いを歩きながら家に帰る途中、外堀の水の揺らぎをぼうっと眺めた。穏やかでない激しい波打ち。曇天だけれど水はキラキラと輝いている。

 

水はいつでも宝石のように美しくて羨ましい。

 

外堀の水を眺めながら、川沿いで暮らしていた学生時代を思った。19歳、20歳のときは利根川、その後22歳くらいまでは隅田川のほとりに住んで、よく一人で川を眺めていた。

 

大学2年生のとき、朝から夕方までずっと空と川の絵を描いていた。全然うまくいかなかったけど、ただ美しい水の揺らぎをみていられるだけで幸せだと思った。

 

「神様、こんなに美しいひと時をくださってありがとうございます。わたしはとても幸せです。」

 

震災が起きたのはわたしが大学3年生になる直前の3月だった。あんなに美しいと感じていた水が、たくさんの人の命を奪っていった。

 

わたしは亡くなった人たちのことを知らなかったが、ボランティアで行った石巻市の人々の笑顔を見たときに、人が(おおぜい)死ぬことの重大さと圧倒的すぎる悲しみを感じずにはいられなかった。

 

わたしは彼らの笑顔を思い出すたびに泣いてしまう。(泣くことができない彼らのために、自分が代わりに泣こうとでも思っているんだろうか?)

 

尊敬していた先生と、高校生のときからお世話になっていた先輩が湖に落ちたのは震災からたった20日後のことだった。

 

まだ3月の湖、どんなに冷たかったろうと思う。先生と先輩と、震災で亡くなった人たちが感じたであろう刺すような水の冷たさを想う。

 

そして先生のことを心から慕っていた、大切な人の涙を想う。ずっとずっと泣きながらも、役目を最後まで全うしたその人の優しさを思うたび、2つの眼からぽろぽろと涙が伝う。

 

美しい海に飲まれた大切な友人を想う。

夏の暑い中、一人で海に入るのはどんな気持ちだったのだろう。ほんの一握りでも、その気持ちを理解できたら幸せになれるのにと想像する。だけどそれは決して叶うことのない儚い願いだと、とっくの昔に理解していた。

 

夢を想う。父さんが死んでから何度も繰り返し見る、美しい川の夢を。

あの場所にいくとわたしはいつも自分に問いかける。『なぜわたしは美しいもののために死なない?なぜ生きているんだ?』って。

 

この世界でわたしを必要としてくれるひとのおかげで、わたしは目覚めることができる。

それでも、わたしが彼らにしてあげられることなんて何1つないのではと感じ、天を見上げてぼうっとする。

 

「わたしを信頼して一緒にいてくれたのに、何もしてあげられなくてごめんなさい。」

 

死んだ人と待ち合わせる家を想う。小さな庭の一角で、完璧な速度で泳いでいる真っ青な2匹の鯉の描く軌跡を眺める。

 

父さんが死んだ夜に言ってくれた言葉を想う。

 

「おまえはいつも水を得た魚のように自由でいなさい。」

 

だからわたしはこの青い鯉のように、規則正しく美しく生きようと決めた。(それならば、もう1匹の鯉は誰なんだ?)

 

今日は風が吹き荒れて、穏やかな水面を激しく揺らしている。

 

本当は、どんなに穏やかにみえても、決して全く同じように揺らいでいる水面なんてないのだ。何事もなく過ぎていく一日なんて存在しないように、水にまつわるわたしの人生もまた、凡庸な日など一切存在していない。

 

 

輝く水面を眺めながら、いまはもういない人達のことを想っていた。

 

もっと一緒にいられるだろうと、自分を甘やかしていたことが恥ずかしくなる。本当に大切で、愛していたのなら、共にいられたその一瞬をもっと美しいものにするべきだった。

 

 

「今日が最後かもしれかいから、あなたの顔をちゃんと覚えていたい…」

 

 

願いが叶うなら、どうか美しい瑠璃色の鯉が泳ぐあの家で待ち合わせしましょう。

 

凡庸な日など一日もないこの人生の合間に、どうか、他愛もない話をさせてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

映像と音について。

 

 ・前置き・

 

先週、映画の『沈黙』を恋人と観に行きました。

で、終わったあとに二人で映画の感想を話し合ったところ、お互い「なんかつまらなかった」「重いテーマの割に明日になったら忘れてしまう軽さがある」という辛辣なものばかり出てくる出てくる…。

 

なぜそんなにつまらないと感じたのか、1つの原因として音楽の使い方がイマイチだったのがある。これは確実にある。

 

ということで、沈黙の悪口を言い続けてもつまらないので、代わり音楽が素晴らしい映像たちを集めてみた。

 

はあ、どれもこれも最高すぎて、全て通して観たときに気持ちよすぎて死ぬかと思った!

 

やはり映像と音楽の関係はこうでなくては…。わたしにとってはため息が出るほど素晴らしいものばかり。よかったら観て&聴いてください。

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・『Eyes wide shut』より屋敷の儀式シーン

Eyes Wide Shut Magic Ritual - YouTube

 

・続いて、同映画のオープニング&エンディングテーマであるショスタコーヴィッチのワルツ 

Eyes Wide Shut - Waltz 2 from (Shostakovich)gbu - YouTube

 

・『Lolita』オープニングテーマ

キューブリックの映画は押し並べて大好きで何度も何度も観てきたのですが、一番好きな作品がアイズワイドシャットとロリータなんです。(結構マニアックだって言われるけど)

 

アイズワイドシャットはかなり混沌としたサスペンス調の暗い映画。でも、ショスタコーヴィッチのワルツが高貴で清々しい印象を与えてる。この曲がテーマ曲でなかったら、わたしは何十回と鑑賞することはなかったです。

(このワルツ、ほんっとうに過不足のない完璧な曲で鳥肌がたつ。)

 

 

そしてロリータのあらすじは、

 

ある変態のおっさんが現れたせいで人々は死に、美少女ロリータは貧困のなか母親となるも、逞しく生きていく…

 

っていう、まあひどい話ですよ。

でも、わたしはこのひどさが大好物。ロリータが最初から最後まで、誰よりも美しく賢く逞しいことに感動を覚えます。

 

とにかく、

 

どんなに分かり辛くとも、どんなに陰惨な内容であろうとも、キューブリックの手にかかれば最高の読後感になってしまう。

決して観客を白けさせない工夫が散りばめられてる。本当にすごい。

 

 

 

・『地獄の黙示録ワーグナーワルキューレの騎行

地獄の黙示録_ワーグナーで襲撃 - niconico 

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音楽が流れるのは3:20あたりから。

それにしても、6:12くらいの村の上を滑空するシーンが快感すぎでやばくないですか??

 

(ワルキューレは、北欧神話に登場する半神で、馬に乗った女神様です。

戦場に赴いて、誰が死ぬのかを定め、勝敗を決めます。そして死者の魂を回収して去っていくのですね。ヘリで襲撃するシーンにぴったりなわけだ〜。)

 

・『サンローラン』Patti Austinの Didn't say A word

SAINT LAURENT - Extrait #6 - Rencontre Jacques & Yves - YouTube

 

サンローランが愛人のジャックと初めて出会うシーン。映像では少し切れちゃってますが、本当はもっと長いシーンです。(映画館でみたとき、長すぎていつまで続くんだろうと心配になったくらい長かった。笑)

 

二人の出会いが、カメラの長回しの技法によって印象的に描かれていて素敵です。ザ・70年代なクラブの雰囲気や衣装もうっとりだわ…。

 

・『CHANEL』(2014 ss)

Chanel | Haute Couture Spring Summer 2014 Full Show | Exclusive - YouTube

 

全スタイルをスニーカーでコーディネートした思い出深いコレクション。日本でも、2015年くらいに高級スニーカーでおしゃれをしているマダムが港区あたりに沢山いました。

(これはシャネルのこのコレクションが火付け役だったのですね。懐かし〜!)

 

階段の演出が憎いです。普通なら高いヒールで慎重に歩くモデルたちが、スニーカー姿で軽快に階段を降りてくる…。

 

この曲を聴くと、ファッションショーでありながら楽しそうに歩いたり走ったりするモデルたちを思い出します。そしてわたしも少し小走りしたくなる。

 

身体と音楽がとてもスムーズにつながる演出で、ラガーフェルドのシャネルのコレクションではこれが一番好きです。

 

・『アレクサンダー・マックイーン』(2009-2010 aw)

Alexander Mcqueen The Horn of Plenty Dress autumn/winter 2009-2010 - YouTube

 

鬼のような格好良さ!

マックイーンのコレクションはどれも素晴らしいけれど、これは集大成的な要素が大きくて何度みても感動する。

服とメイクと舞台装置と音楽とモデルの動き、どれを取っても完璧だと思った。

 

「わたしも人生で一度くらいは、これくらい完璧なものを作ってみたい。作ってからでないと死ねない。」

 

はじめてこのショーを見たときの想いは、いまでもずっと生き続けています。

 

・『アムール』シューベルトのインプレッション

2 Amour Haneke HD - YouTube

 

 

アムールはとてもハネケらしい演出で、BGMがピアノの演奏しかありません。

 

このシーンは、病で動けなくなってしまった妻の元気だったときの姿を、夫がCDを聴きながら思い出しているシーンなんですね。とてつもなく切ないです。

 

色々な映画を観てきたなかでも、アムールは別格に好きな映画です。

死後に1つだけ持っていける映画を選ぶなら、いまのところはこれかなあ…。

 

(アムールで実際に音楽を担当したアレクサンドル・タローさんが弾くシューベルトもぜひとうぞ。↓)


Alexandre Tharaud, Schubert, Impromptus, op. 90, D. 899 - YouTube

 

 

ランボーの詩集とサロメのライター。

 

今日は少し時間に余裕があったので午前中はお出かけしました。

 

恋人がドラン君ファンということもあり、『たかが世界の終わり』を鑑賞。

たまたま今日に限って先着プレゼントなるものがあり、ドラン君のメイキングカードなるものをもらった。

嬉しくて餅のような笑顔のわたし。

 

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そしてその後、本屋さんへ行ってランボーの詩集を3冊購入。(訳者がそれぞれ違うので読み比べ用です。)

 

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じゃあ帰るかね〜と歩いていたら、ふとライター屋さんの前を通ったんです。

 なんとなくピンときて、フラフラと店内を散策。

国内外のヴィンテージのライターやマッチなどが売られていて、とても夢の詰まった空間!

 

あまりウインドウショッピングなどしないわたしには珍しく、何周もお店をぐるぐる見ていました。

 

すると、1つのライターに目が釘付けに…

 

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つるぎの模様に、少し日本的な雰囲気のする飾りがついてる。

メーカーの名前をみてみると、そこには『SAROME』の文字が。

 

サロメ?剣の模様にサロメということは、あのオスカー・ワイルドサロメ??

 

と、頭のなかで膨らむ想像。

買う予定が一ミリもなかったのに、どうしてもこのライターを手にいれなければいけないような気がして、すぐに購入しました。

 

買ってからSAROMEについて調べてみたら、戦後に設立された高級ライター製造会社だそうで、

サロメのように、人々を魅了するライターを作りたい。』

設立者がオスカー・ワイルドサロメに心惹かれていたことから、会社の名前にしたそうです。(わたしはまさにその通りにこのライターに惹かれてしまいました。)

 

それにしても、ランボーの詩集を買ったあとにオスカー・ワイルドサロメのライターに出会うなんて、なんて出来すぎた偶然でしょう!

 

こんな完璧な日があるから人生は面白い。

 

大切に使っていこうと思います。

 

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(ちなみに、わちしのアイフォンケースはクラーナハのユディトです。

ユディトとサロメを携えて出かけられるなんて、なんて素敵!)

 

〝かけがえのない人になんかなりたくない〟病気。

 

「君は僕にとってのかけがえのない人。

君は僕の半身なんだ。

誰よりも大切な人なんだ…」

 

ロマンチックで、やたら甘い匂いのする言葉。だけどどこか使い古された腐臭がする。

 

気のせいか?

 

それに気づいた途端、すべてがつまらないものにすり替わってしまう。

 

なぜなんだ?

 

いつも思っている。「誰かのかけがえのない人になんて絶対になりたくない」って。

 

「わたしにとって換えの効かない人間など、わたし一人だけでよろしい!」

それに、もしもこの世に〝かけがえのない人〟が山のようにいたら、とっくに世界は終わってる。

 

誰も、そう思わないのだろうか?

 

 

わたしの師匠は化粧の仕事についてこう言った。

 

「いいかい、僕たちのように人に触れる仕事を生業にする人間は、決して心に波があってはいけない。

 

決して幸福にも不幸にもなってはいけない。

 

いつも波のない平坦な心を保っていなさい。

でないと、君の心のすべてがその手を通して相手に伝わってしまうよ。感情に左右されては、それはプロの仕事になり得ない。」

 

幸福にも不幸にもなってはいけない

 

 この言葉は自戒になったし、とても美しい言葉だと思った。その後のわたしの全ての行動を支配するに十分な力を持っていた。

 

人間はほんとうに勝手な生き物だと思いませんか?

 

自分が不幸なときは、幸福で満たされている他人が恨めしいし、自分が幸福なときは、不幸面で場の空気をどんよりと濁すやつをとことん煩わしく思う…。

 

 

だけど、そんな憎むべき人間的生活のなかで、日々淡々と平常心を保っていれば、何が起きても恨めしくも煩わしくもない。

 

ただ透明無色な自分でいられる。(これは本当に魅力的なことだった!)

 

何色にも染まることができることのみがこの仕事における才能で、それこそがプロフェッショナルの証。わたしはそう信じている。

 

特別なものなど何もない人生。すべのものは代替可能だと思える人生。…長い目でみれば、わたし自身の代わりでさえごまんといるのだ。

 

そう考えるにつけ、自分に対しての愛情の質は変容していった。

〝かけがえのないわたし〟が死んで、新しく生まれたのが〝筒のような、橋のような、上流から下流にただ流れていく水のような、どこにでもある景色のようなわたし〟だった。

 

わたしはただの〝機能〟になって、自分の中を通過していくもののためだけに生きる。

 

わたしの中を、毎日色々なものが通過していく。

それは口に出した言葉であったり、言葉にならずとも溢れてくる他人の感情であったり、会ったこともない誰かのストーリーであったり、遥か彼方に追いやられて消えていった文化だったり、得体のしれない、妖しくて艶やかな美であったりする。

 

これはとても〝幸福〟な生き方だと思った。そしてわたしの中を流れる水はいつも澄んでいて、美しい。

 

役割を自覚さえすればなにも思い悩む必要などないのだからそれも当然。この世の正解もお金も美しさも、役割通りに生きればすべてついてくるような気がしている。

 

「生きるのは仕事なんだ。ただ普通の仕事と違うのは、〝どこぞの誰に与えられたのか分からない仕事〟であるということだけ…。」

 

 

 

だけどそれでも、生まれたばかりの新鮮な〝弱さ〟が時々顔をのぞかせて煩わしい。

 

辛いことがあったとき、大切なあなたに会いたいと思う。

いまだ心の底に存在している幸福も不幸も、すべてひっくるめて共有できたらどんなに幸せか!

 

そして願いが叶うなら、あなたの心臓の音を聞きたい。

わたしのなかにいつも棲んでいる、神々しい獣のような人たちの心臓の音を。

 

きっとかけがえのない幸福な思い出になって、わたしの命が終わるまで生きる力を与えてくれるだろう。

はあ…これがわたしの大嫌いな〝かけがえのない〝〝幸福〟のまやかしか!

 

こんなに切実に、人に受け入れられたいと感じるのは久しぶりで、いやあ、困った…。

 

でももう一つ怖いことがある。こんな未熟な弱さでさえ、きっとわたしは仕事に取り込んでしまうという予感。

 

喉元過ぎれば、幸福も不幸もこねくり回して忘れるだろう。

そしていつか、筒なり橋なり川の流れなり、わたしの〝役割〟のためにそれを使う日が来るだろう。

 

そしてその瞬間、それまでかけがえのない幸福だと思っていたものが途端につまらない凡庸なものに成り下がる。

まだ起きていないことでも、ありありと眼に浮かぶ。

 

でもこれが生きるということ、人生をかけて仕事をやりきるということ。

 

〝かけがえのないものなんてこの世になに一つないのだから…〟

 

知ってる。その通りだよ、未来のわたし!

 

 

こんなふうに生きる人間をなんて呼ぶか知ってるかって?

 

〝ワーカーホリック〟

またの名を

〝ありきたりでつまらない女〟

 

 

そう、どこにでもいる、ありきたりな人間のこと。

 

それでもわたしはありきたりでつまらなくて代替可能な人間になりたい。

 

誰の眼にも映り込まない、凡庸な景色のような人間に。

 

 

 

10年遅れの反抗期と『子による父殺し』のプロセス 前編

 わたしはいま、27年生きて来た中で最大の反抗期を迎えている。

反抗の相手は、わたしの夫。

そしてもう一つの相手は、この日本社会そのものに対して。

 

一般的な反抗期は、思春期である13〜18歳ごろに訪れるのが普通とされている。しかし、わたしはこの時期に正当な反抗期を経験していない。14歳から17歳になる直前まで、わたしたち一家は父親の末期ガンという重苦しく深刻な問題を共有しなければならなかったからだ。

 

わたしの中で、父はとにかく可哀想な男だった。

 

家族とコミュニケーションをとるのが下手で、些細なことで母と喧嘩をしてはよく自室に籠もっていた。そしてその部屋からは、テレビを見ながら一人で笑い転げる父の声が虚しく響いてくる。これは、わたしの中で最も強く残っている父のイメージの一つだ。

 

わたしはどんなときでも大人しい子供だったが、父がガンになってから一度だけ反抗心を露わにしたことがある。

文房具用のカッターで手首をじりじりと切ったのだ。このカッターの切れ味が悪かったものだから、傷口は妙に幅の広いものになってしまった。だけど、その傷の開き方の割には血が出なかったように思う。

 

血が流れるわたしの腕を見せたとき、すでに末期ガンと宣告されていた父は何も言わずに自室に帰っていった。

彼には本当に可哀想なことをしたと思う。父は母と違って、自傷した娘を抱きしめることもできなければ、かといって叱りとばすことも話し合いに持ち込むこともできない。そんな人間的な強さなど父には備わっていないのだと、わたしはこの時はっきりと自覚したのだ。

 

 

『エディプスコンプレックス』という、ジグムント・フロイトによる精神分析の用語をご存知だろうか。

 

息子による父殺しという比喩を持って紹介されることが多いこの精神分析は、男児が社内化される過程で大人なっていく際、最も身近な社会規範である父親を乗り越えて一人前になっていくさまを表している。

だが女児の場合は少し話が違う。女児は成長するにつれ、最も身近な異性である父親を愛するようになるという。(通説で、女は自分の父親に似た男を伴侶とするというが、これはエディプスコンプレックスから引用したものなのだろうか?)

 

しかしわたしの父はどうだろう?わたしの血が滲んだ腕に向き合えない男を、わたしは『最も身近な社会規範で、愛を向ける対象』と捉えることができなかった。一家の主である父親はもっと強い存在であるべきだと思っていたし、わたしがたとえ男児であったら、乗り越えるべき障壁として父を設定することはなかっただろう。

 

よく、「この戦後日本社会そのものがアメリカにより去勢された未成熟な男児である」という説を耳にする。わたしの父は戦後10年ほどで産まれたわけだから、彼こそ去勢された日本そのものを反映された一人なのかもしれない。

 

ならば、わたしはなおさらかくも弱い彼との関係を無視することはできない。彼から目をそらすということは、この国で生きるのを放棄するのと同義であると感じる。

どんなに父が『理想とする社会規範』から程遠い者であっても、すでに故人であるとしても、わたしは向き合わなければならない。

 

そうしなければ、わたしは永遠にこの反抗期から抜け出すことができないのだ。

 

(後編に続く)

 

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(今回は、思うところがあって手書きで文章を書いてからスマホで打ち込んでみました。いままでと少し文体が違うとしたら、手書きによる変化だと思います。

言葉をもっと自分自身の心身に近いものにしたくて、最近は手書きを生活のなかに取り戻そうとしているところです。)