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わたしがポリアモリーになった理由。

 

「ポリアモリー(複数恋愛)を始めるきっかけはなんだったのですか?」と聞かれることが多いので、改めてまとめておきます。

 

もう2年以上前のことなのですが、同じ大学で交流のあった友人が亡くなりました。

死因はなんとも微妙なところで、事故とも自殺ともとれる不思議な最期でした。

 

だけど少なくとも、友人が最期に一人ぼっちで亡くなったのは明らかで、わたしはその知らせを聞いて呆然としてしまいました。

 

わたしは5年前、大学在学中に結婚し、3年前に子供を産みました。

何がいいたいかというと、わたしは大学を卒業して以降、自分の生活にかまけてその友人と会うことをしなかった。

 

在学中から気になる存在ではあったものの、その感情は「友人としての好意」であり、そこまで特別に仲良くなるほどの気持ちではないかな、と決めつけていたのです。

 

夫と結婚して、幸せな生活を送りはじめて、わたしの頭の中から友人の存在はどんどん薄まっていきました。

 

だけど、友人が亡くなってからわたしの生活の全てが変わった。

 

友人が一人きりで死んでいったと知ってから、彼の最期を想って涙が止まらない日々が始まり、「わたしは、わたしのためにも、彼が生きている間にもっと話をしておくべきだったんじゃない?」と。

 

自分を責めて、泣いて、でもちゃんと生活しなきゃいけないから昼間は仕事をして、夜は「今すぐ窓から飛び降りたいなあ」思いながら泣いて寝る。このバランスでなんとか生きる。そんな生活が2年以上続きました。

 

あまりにも不安定な自分を俯瞰してはじめて、「ああ、わたしは彼のことを愛していたのかもしれない。」と、自分の感情に気づいたのです。

 

なんで?

どうして?

どんな理由があって彼が一人で死ななきゃいけなかったの?

 

 

わたしはきっと、彼が生きている間、自分が彼に惹かれていることに気づきたくなかったのです。

 

わたしが彼のことを好きになったら迷惑かもしれない。

自然に仲良くなれないんだったら、きっと縁がないんだろう。

しつこく追い回したりして、嫌われたくない。

 

そんなことばかり考えていて、何もしなかった。

 

それに、わたしは彼に出会った頃には夫と結婚する予定をすでにたてていて、「自分が好きな人は夫だけだから!」と、自分に言い聞かせていました。

 

 

だけど、友人が亡くなって気づいたのは、「好きな人を一人に決めることなど到底無理なことだった。」ということです。

 

友人としての好意なのか、

それとも色欲なのか、

遠い存在に対する憧れなのか、

自分の心の穴を埋めるための独占欲なのか。

 

わたしたちがいつも「愛」と呼んでいる感情の中身はごちゃごちゃで、全く整理がされておらず、誰も本当の自分の気持ちなんて知らない。

 

だけど、知らないでは何も始められないから。

思考するのをやめて、無理やり「愛」をパッケージングする。

 

そして、その「愛」を渡せるのは生涯でただ一人。

 

それが、わたしたちの世界のルール。ここから逃れることはできない。

 

わたしはそう思って夫を愛し、結婚し、子供を産みました。

 

それでわたしの人生は正解で、自分は正しい人間だと思い込みたかったのです。

 

 

 

だけど、

 

 

いまでも私は、亡くなった友達を想って泣いている。

この文章を書いている今も、彼に会いたくて、話がしたくて、でもそれが叶わなくて泣いている。

 

 

ありえないことだとは分かっていても、もしも数年前に戻れるなら、

もしも彼がいま目の前に現れたなら。

 

わたしは、彼に「愛してる」と言ってしまうだろう。

 

愛は一人にしか渡さないと信じて生きてきたのに、いままでの努力を全て踏みにじっても言うだろう。

 

 

彼のことを思うと、

彼のことを愛する自分を思うと、

そして夫と子供のことを思うと、

 

わたしは息ができなくなって、

脈がおかしくなって、

鼓動が不規則になって、

涙が止まらなくなる。

 

 

そうなってはじめて、

「もうわたしはだめだ。

もう今までみたいに生きるのは無理だ。」

と、自分の人生を諦めることができた。

 

こんな後悔をもう一度繰り返したら、次こそ、わたしは苦しさできっと死んでしまう。

だったら、死なないで済むように、愛している人に愛を伝えて生きたい。

 

それだけのことが許されない世の中になんて生きていたくない。

 

本気でそう思いはじめた。

 

 

-------------

 

(こんなことを考えて、わたしはポリアモリーを始めるに至りました。

 

結局、どうしたら、後悔しない人生を送れるんだろう?ということを突き詰めて考えたら、こうならざるを得なかったという話です。

 

 

人を傷つけないで、同時に自分を傷つけないで生きることはできるのか?

 

 日々考えながら、生きることに、挑戦しています。

 

 

わたしは自分の気持ちを俯瞰するのが得意だから、日頃は至極まともに生きているはずです。

 

だけど、心のなかではいつも、季節が移ろうのが怖くて仕方がない。  

 

もう歳をとらない、死んでしまった人たちと違う時間に生きていることが辛い。

そしてさらに、自分が生きている限り、今生きている周りの人たちは少しずついなくなっていく。

 

わたしが死ぬその日まで、苦しみは続くんだと。

 

その苦しみに向き合うための仕組みが、ポリアモリー

 

参考になるかわかりませんが、こんなポリアモリーもいるんだということが少しでも伝われば嬉しいです。)

 

 

 

 

 

 

 

 

人を好きになること。

 

好きな人が、一人で歩くのを見た。

 

いつもの足取りで、いつもの歩幅で、後ろ姿は小さくなる。

 

あっという間に人混みに消えて、

あの人はわたしの姿を見ることなく、一日を過ごすことになる。

 

 

好きな人と、一緒に歩く夢を見た。

 

夢のなかで、わたしたちは向かい合って、わたしの眼があの人の眼に映ってた。

夢のなかで、美しいその笑顔をわたしにくれた。

おかしいな、生きている世界ではあの人の笑顔なんてみたことがないのに。

 

夢のなかで、わたしたちはゆっくりゆっくり、一緒に歩いていった。

 

わたしはあの人の耳元でささやく。

 

「わたし、あなたのことが好きなんです。」

 

少しいたずらっぽい声で

口元に笑みを浮かべながら。

 

「俺も好きだよ。」

 

と、あの人はは笑ってわたしに言う。

 

わたしはまたあの人の耳元でささやいた。

 

「あなたがわたしのこと好きなわけないじゃない。」

 

そこで夢が覚めた。

 

ああ、なんでわたしは夢の中でさえ、

人の愛情を否定しているんだろう。

 

「わたしが愛した人は

わたしのことを愛したりしない。

 

本当は愛されたくなんかない。」

 

心の奥の方で転がってる言葉が溢れて、

目が覚めてからずっと苦しかった。

 

 

今日はこの世界で、あの人の後ろ姿をただ見ていた。

 

わたしはいつもあなたの姿を探して、

夢のなかでやっと会って、

それでもわたしたちが愛し合うことはない。

 

 

 

片手で数えられるくらいしか、ちゃんと話したことがないわたしの好きな人。

 

「あなたの姿をみたあとで、通り雨が降りました。

雨が降ってくれてよかった、わたしのこの気持ちが洗い流されるみたいだから。」

 

わたしは、

なんであなたのことが好きなのか分からない。

 

だから夢のなかでいいから教えてほしい。

 

あなたは一体誰なのですか?

 

 

 

好きな人を 思い出す夜は

 

大好きだった 人のことを考えて

たくさん たくさん 泣く夜に。

 

むかし  好きだった 人のことを思い出して

 

もう 死んでしまった

 

ということを すっかり忘れてしまってた。

 

薄暗い 小さな 森のような 場所を見ると

「大好きだった人が 歩いてくるんじゃないか」と

ぼうぜんと 立ち尽くす。

 

そのまま 目を閉じると

まだ わたしたちが 同じ世界にいた景色が フラッシュバック。

 

自分を信じていなかった 若い時のわたしは

「大好きな人のことを とても愛している」

ということに 気づいていなかった。

 

「なんて バカ な子」

「救いようのない 根性なし」

 

弱いわたしは

大好きな人の前に立つと

いつも 言葉が詰まり

いうべきことがなんなのか 分からずに

つまらないことしか言えない

 

そんな自分が 大嫌いで

 

だけど それでも

 

目を合わせるだけで

時が止まったような 感覚になる

 

「そんな人がこの世にどれだけいるかって?」

考えてみたら すぐ分かることだ

 

「わたしはこの人を愛してる 」

ということを。

 

どんどん 歳を重ねていく わたし

いつまでも 歳をとらない 大好きな人

 

あなたとの距離が どんどん遠く

離れてしまうことが ほんとうに寂しくて

 

ただただ わたしは

あなたが 歩いてくるかもしれない

薄暗い森を 思い描いて

 

静かに 静かに

涙の中に 堕ちて眠るんだ。

アイデンティティは、「あの神」を隠す装置

Identity (アイデンティティ)の超・分かりやすい日本語解説があったので、引用してみます。(安冨歩『ありのままの私』より抜粋)

 

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同一であること。同一性。一致。
同一人であること。本人であること。正体。身元。
独自性、主体性、本性。
帰属意識
恒等式

 

これらの意味をひとつの言葉で括るのは、日本語としては意味不明です。
特に「同一」であることと、「独自性」と「帰属意識」とが同じ言葉というのは、わけがわかりません。(中略)
そして散々考えた挙句、どうやらユダヤ教キリスト教といった、一神教の「神」という言葉を隠すための装置なのではないか、と思うようになりました。

一神教では、神は、あの神、しか認めません。共に信者であるなら、「同じ」「同一の」神を信じているはずです。
「同一の」神を信じるなら、つまり、信じている神が互いに「一致」するなら、○○教徒という同じ集団に「帰属」しているわけです。
一神教の信者の「本性」は、あの神だけを信じる、ということです。
そして各人の「本性」はその神から与えられるわけで、その「本性」に、その人自身のあり方が「一致」していたら、それはその人「本人であること」あるいは「同一であること」が確認できます。
その人が、その本性に一致しているなら、その人は「独自性」を示しており、「主体性」を確保しています。
恒等式」というのは、等号の左右の式の値が常に「一致」している式、という意味です。

 

(中略)つまり、この言葉は、一神教の神、を前提とした概念を表しているのです。

 

(中略)つまり彼ら(一神教の信者)が「アイデンティティ」というとき、暗黙のうちに「あの神」を想定しているけれど、それは口にしないのです。

なので、このような文化的前提を置いていないヨソモノには、わかったような、わからないような謎の概念になります。

 

(欧米の美術作品を観るとき、この『アイデンティティ』のニュアンスをちゃんと理解していないと、中身のある鑑賞なんてできっこないと、わたしはずっと思っていました。

 

でも今まで生きてきて、ここまで分かりやすく日本語にしてくれた本に出会うことがなかったから、ずっとモヤモヤしてたんですよね。もう少し早くこの本に出会いたかったな…😭)

 

そういえば、昔サカナクションの曲で「アイデンティティ」というのがありました。

 

 

アイデンティティがない自分自身について思い悩む人の曲なのですが、最終的には「中学生の頃の純粋な自分にこそ本当の自分らしさがあった」というオチなのです。

中学生の自分にアイデンティティを見出してたら、今後どうやって社会のなかで生きていくんだ!?とツッコミたくなりますが、こういう曲が流行るのが日本、つまり『ネオテニー・ジャパン』たる所以なのだなとしみじみ思ったのでした。

ポップミュージックも現代アートも、抱えてる問題はさして変わらないということなのでしょうか。

水の揺らぎにまつわる思い出

 

午後から風が強くなってきた。

総武線沿いを歩きながら家に帰る途中、外堀の水の揺らぎをぼうっと眺めた。穏やかでない激しい波打ち。曇天だけれど水はキラキラと輝いている。

 

水はいつでも宝石のように美しくて羨ましい。

 

外堀の水を眺めながら、川沿いで暮らしていた学生時代を思った。19歳、20歳のときは利根川、その後22歳くらいまでは隅田川のほとりに住んで、よく一人で川を眺めていた。

 

大学2年生のとき、朝から夕方までずっと空と川の絵を描いていた。全然うまくいかなかったけど、ただ美しい水の揺らぎをみていられるだけで幸せだと思った。

 

「神様、こんなに美しいひと時をくださってありがとうございます。わたしはとても幸せです。」

 

震災が起きたのはわたしが大学3年生になる直前の3月だった。あんなに美しいと感じていた水が、たくさんの人の命を奪っていった。

 

わたしは亡くなった人たちのことを知らなかったが、ボランティアで行った石巻市の人々の笑顔を見たときに、人が(おおぜい)死ぬことの重大さと圧倒的すぎる悲しみを感じずにはいられなかった。

 

わたしは彼らの笑顔を思い出すたびに泣いてしまう。(泣くことができない彼らのために、自分が代わりに泣こうとでも思っているんだろうか?)

 

尊敬していた先生と、高校生のときからお世話になっていた先輩が湖に落ちたのは震災からたった20日後のことだった。

 

まだ3月の湖、どんなに冷たかったろうと思う。先生と先輩と、震災で亡くなった人たちが感じたであろう刺すような水の冷たさを想う。

 

そして先生のことを心から慕っていた、大切な人の涙を想う。ずっとずっと泣きながらも、役目を最後まで全うしたその人の優しさを思うたび、2つの眼からぽろぽろと涙が伝う。

 

美しい海に飲まれた大切な友人を想う。

夏の暑い中、一人で海に入るのはどんな気持ちだったのだろう。ほんの一握りでも、その気持ちを理解できたら幸せになれるのにと想像する。だけどそれは決して叶うことのない儚い願いだと、とっくの昔に理解していた。

 

夢を想う。父さんが死んでから何度も繰り返し見る、美しい川の夢を。

あの場所にいくとわたしはいつも自分に問いかける。『なぜわたしは美しいもののために死なない?なぜ生きているんだ?』って。

 

この世界でわたしを必要としてくれるひとのおかげで、わたしは目覚めることができる。

それでも、わたしが彼らにしてあげられることなんて何1つないのではと感じ、天を見上げてぼうっとする。

 

「わたしを信頼して一緒にいてくれたのに、何もしてあげられなくてごめんなさい。」

 

死んだ人と待ち合わせる家を想う。小さな庭の一角で、完璧な速度で泳いでいる真っ青な2匹の鯉の描く軌跡を眺める。

 

父さんが死んだ夜に言ってくれた言葉を想う。

 

「おまえはいつも水を得た魚のように自由でいなさい。」

 

だからわたしはこの青い鯉のように、規則正しく美しく生きようと決めた。(それならば、もう1匹の鯉は誰なんだ?)

 

今日は風が吹き荒れて、穏やかな水面を激しく揺らしている。

 

本当は、どんなに穏やかにみえても、決して全く同じように揺らいでいる水面なんてないのだ。何事もなく過ぎていく一日なんて存在しないように、水にまつわるわたしの人生もまた、凡庸な日など一切存在していない。

 

 

輝く水面を眺めながら、いまはもういない人達のことを想っていた。

 

もっと一緒にいられるだろうと、自分を甘やかしていたことが恥ずかしくなる。本当に大切で、愛していたのなら、共にいられたその一瞬をもっと美しいものにするべきだった。

 

 

「今日が最後かもしれかいから、あなたの顔をちゃんと覚えていたい…」

 

 

願いが叶うなら、どうか美しい瑠璃色の鯉が泳ぐあの家で待ち合わせしましょう。

 

凡庸な日など一日もないこの人生の合間に、どうか、他愛もない話をさせてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

映像と音について。

 

 ・前置き・

 

先週、映画の『沈黙』を恋人と観に行きました。

で、終わったあとに二人で映画の感想を話し合ったところ、お互い「なんかつまらなかった」「重いテーマの割に明日になったら忘れてしまう軽さがある」という辛辣なものばかり出てくる出てくる…。

 

なぜそんなにつまらないと感じたのか、1つの原因として音楽の使い方がイマイチだったのがある。これは確実にある。

 

ということで、沈黙の悪口を言い続けてもつまらないので、代わり音楽が素晴らしい映像たちを集めてみた。

 

はあ、どれもこれも最高すぎて、全て通して観たときに気持ちよすぎて死ぬかと思った!

 

やはり映像と音楽の関係はこうでなくては…。わたしにとってはため息が出るほど素晴らしいものばかり。よかったら観て&聴いてください。

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・『Eyes wide shut』より屋敷の儀式シーン

Eyes Wide Shut Magic Ritual - YouTube

 

・続いて、同映画のオープニング&エンディングテーマであるショスタコーヴィッチのワルツ 

Eyes Wide Shut - Waltz 2 from (Shostakovich)gbu - YouTube

 

・『Lolita』オープニングテーマ

キューブリックの映画は押し並べて大好きで何度も何度も観てきたのですが、一番好きな作品がアイズワイドシャットとロリータなんです。(結構マニアックだって言われるけど)

 

アイズワイドシャットはかなり混沌としたサスペンス調の暗い映画。でも、ショスタコーヴィッチのワルツが高貴で清々しい印象を与えてる。この曲がテーマ曲でなかったら、わたしは何十回と鑑賞することはなかったです。

(このワルツ、ほんっとうに過不足のない完璧な曲で鳥肌がたつ。)

 

 

そしてロリータのあらすじは、

 

ある変態のおっさんが現れたせいで人々は死に、美少女ロリータは貧困のなか母親となるも、逞しく生きていく…

 

っていう、まあひどい話ですよ。

でも、わたしはこのひどさが大好物。ロリータが最初から最後まで、誰よりも美しく賢く逞しいことに感動を覚えます。

 

とにかく、

 

どんなに分かり辛くとも、どんなに陰惨な内容であろうとも、キューブリックの手にかかれば最高の読後感になってしまう。

決して観客を白けさせない工夫が散りばめられてる。本当にすごい。

 

 

 

・『地獄の黙示録ワーグナーワルキューレの騎行

地獄の黙示録_ワーグナーで襲撃 - niconico 

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音楽が流れるのは3:20あたりから。

それにしても、6:12くらいの村の上を滑空するシーンが快感すぎでやばくないですか??

 

(ワルキューレは、北欧神話に登場する半神で、馬に乗った女神様です。

戦場に赴いて、誰が死ぬのかを定め、勝敗を決めます。そして死者の魂を回収して去っていくのですね。ヘリで襲撃するシーンにぴったりなわけだ〜。)

 

・『サンローラン』Patti Austinの Didn't say A word

SAINT LAURENT - Extrait #6 - Rencontre Jacques & Yves - YouTube

 

サンローランが愛人のジャックと初めて出会うシーン。映像では少し切れちゃってますが、本当はもっと長いシーンです。(映画館でみたとき、長すぎていつまで続くんだろうと心配になったくらい長かった。笑)

 

二人の出会いが、カメラの長回しの技法によって印象的に描かれていて素敵です。ザ・70年代なクラブの雰囲気や衣装もうっとりだわ…。

 

・『CHANEL』(2014 ss)

Chanel | Haute Couture Spring Summer 2014 Full Show | Exclusive - YouTube

 

全スタイルをスニーカーでコーディネートした思い出深いコレクション。日本でも、2015年くらいに高級スニーカーでおしゃれをしているマダムが港区あたりに沢山いました。

(これはシャネルのこのコレクションが火付け役だったのですね。懐かし〜!)

 

階段の演出が憎いです。普通なら高いヒールで慎重に歩くモデルたちが、スニーカー姿で軽快に階段を降りてくる…。

 

この曲を聴くと、ファッションショーでありながら楽しそうに歩いたり走ったりするモデルたちを思い出します。そしてわたしも少し小走りしたくなる。

 

身体と音楽がとてもスムーズにつながる演出で、ラガーフェルドのシャネルのコレクションではこれが一番好きです。

 

・『アレクサンダー・マックイーン』(2009-2010 aw)

Alexander Mcqueen The Horn of Plenty Dress autumn/winter 2009-2010 - YouTube

 

鬼のような格好良さ!

マックイーンのコレクションはどれも素晴らしいけれど、これは集大成的な要素が大きくて何度みても感動する。

服とメイクと舞台装置と音楽とモデルの動き、どれを取っても完璧だと思った。

 

「わたしも人生で一度くらいは、これくらい完璧なものを作ってみたい。作ってからでないと死ねない。」

 

はじめてこのショーを見たときの想いは、いまでもずっと生き続けています。

 

・『アムール』シューベルトのインプレッション

2 Amour Haneke HD - YouTube

 

 

アムールはとてもハネケらしい演出で、BGMがピアノの演奏しかありません。

 

このシーンは、病で動けなくなってしまった妻の元気だったときの姿を、夫がCDを聴きながら思い出しているシーンなんですね。とてつもなく切ないです。

 

色々な映画を観てきたなかでも、アムールは別格に好きな映画です。

死後に1つだけ持っていける映画を選ぶなら、いまのところはこれかなあ…。

 

(アムールで実際に音楽を担当したアレクサンドル・タローさんが弾くシューベルトもぜひとうぞ。↓)


Alexandre Tharaud, Schubert, Impromptus, op. 90, D. 899 - YouTube

 

 

ランボーの詩集とサロメのライター。

 

今日は少し時間に余裕があったので午前中はお出かけしました。

 

恋人がドラン君ファンということもあり、『たかが世界の終わり』を鑑賞。

たまたま今日に限って先着プレゼントなるものがあり、ドラン君のメイキングカードなるものをもらった。

嬉しくて餅のような笑顔のわたし。

 

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そしてその後、本屋さんへ行ってランボーの詩集を3冊購入。(訳者がそれぞれ違うので読み比べ用です。)

 

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じゃあ帰るかね〜と歩いていたら、ふとライター屋さんの前を通ったんです。

 なんとなくピンときて、フラフラと店内を散策。

国内外のヴィンテージのライターやマッチなどが売られていて、とても夢の詰まった空間!

 

あまりウインドウショッピングなどしないわたしには珍しく、何周もお店をぐるぐる見ていました。

 

すると、1つのライターに目が釘付けに…

 

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つるぎの模様に、少し日本的な雰囲気のする飾りがついてる。

メーカーの名前をみてみると、そこには『SAROME』の文字が。

 

サロメ?剣の模様にサロメということは、あのオスカー・ワイルドサロメ??

 

と、頭のなかで膨らむ想像。

買う予定が一ミリもなかったのに、どうしてもこのライターを手にいれなければいけないような気がして、すぐに購入しました。

 

買ってからSAROMEについて調べてみたら、戦後に設立された高級ライター製造会社だそうで、

サロメのように、人々を魅了するライターを作りたい。』

設立者がオスカー・ワイルドサロメに心惹かれていたことから、会社の名前にしたそうです。(わたしはまさにその通りにこのライターに惹かれてしまいました。)

 

それにしても、ランボーの詩集を買ったあとにオスカー・ワイルドサロメのライターに出会うなんて、なんて出来すぎた偶然でしょう!

 

こんな完璧な日があるから人生は面白い。

 

大切に使っていこうと思います。

 

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(ちなみに、わちしのアイフォンケースはクラーナハのユディトです。

ユディトとサロメを携えて出かけられるなんて、なんて素敵!)