【絵を〈描く〉ことも〈見る〉ことも禁じてきた民の〈美術をめぐる静かな闘争〉】

【ユダヤ人と近代美術ー絵を〈描く〉ことも〈見る〉ことも禁じてきた民の〈美術をめぐる静かな闘争〉】

 

おおう、こんなにも、いまわたしの知りたい内容の本が他にあるだろうか!

 

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わたしはずっと、アートを観るときに作家と宗教の関係性を最も気にしています。

 

なぜなら、カトリックの教育を受けていた期間がとても長い人生を送ってきたから。

 

わたしの【美】に対するベースの考え方は【偶像崇拝】。

天使の絵とかマリア像とか、そういう形あるものに信仰を感じ、美意識へと落とし込んでいった幼少期を過ごしました。

 

だけど現代アートの仕組みを作ったユダヤ人の宗教は【偶像崇拝禁止】なわけで。

 

『何もないところに神を感じるって、どうすればそんな精神性が育つの??』

 

と、思春期くらいまでは彼らの脳内で何が起きているのか全く理解できず、いつも【?】って感じだったし、抽象絵画もサッパリ琴線に響かなかった。

 

だけど、十代も後半になりカトリックの教育から抜け出して様々な人と関わっていくなかで、

『ああ、何もないところに美を感じるって、わたしにもできるんだ。』

と思う出来事が沢山あった。

 

そしてやがて、抽象表現の美術作品も大好きになったのです。

(ただ、理解できるようになったというだけで、自分が表現する側になった場合は別。
わたしはやはり、形あるものからしか創造するエネルギーを得ることはできません。
これこそが、宗教からくるアイデンティティなんですよねえ。)

 

日本では、宗教とアイデンティティを結びつけて自分を表現することがなかなか難しい空気だと思う。

 

そんな空気感のなか、なんとな〜く宗教やアイデンティティを曖昧にすることから生まれる『人間関係の危うさ』が蔓延してるんじゃないか??

 

衝突しないことは確かに大事だけど、『自分自身はこういう人間です』という意思表明をやらなかったせいで誰かに地雷を踏まれたら、それこそ大事故じゃん??
(しょっちゅうみるよね、こういう光景…。)

 

今回わたしがいいたいのは、なにも信仰の話だけではない。

いつも自分の周りに当たり前に存在している家族や友達や親や恋人や仲間たち。

 

どんなに気心知れた仲であっても、
『自分には到底理解できないかもしれない何か』が、お互いの心の底のほうに存在してるんだってこと。

 

それをしっかり見つめ、そして時間をかけて理解し、互いに許容していくこと、わたしはちゃんとできてるかな?って。

わたしは毎日、絵や仕事を通して自分に問いかけています。

 

芸術を学ぶ上でもそう。
時間をかけて学び、人生経験を重ねて作品と作家を深く理解していくことにこそ意味がある。

 

芸術が抱えている最も大切な役割は、『相互理解』と『世界平和』だって、小学生のときからずっと信じて疑ったことはないのです。

 

なので、ユダヤ教プロテスタントについてもっと勉強したいし、最近は法華経仏教神道も興味がある。

 

(宮崎賢治はキリスト教を用いて銀河鉄道の夜を書いたけど、彼自身は法華経を熱心に信仰していた。
宗教に共通点はつきものなのです。)

 

これだけ宗派がバラバラに分かれてしまって、宗教戦争も絶えない世界に生きてるけど、根っこの部分ではすべて繋がっているんだから。

 

わたしは、違いをあぶり出して憎しみ合うのではなく、共通点を見出して愛し合う人生を貫きたいよ。