今日は本音を少し。

深夜の2時。
わたしは台所で煙草をふかしながら、8年ぶんの自分の作品と、こつこつ書きためてきた拙い文章をまとめた作品集のチェックをしている。

率直な感想としては、まさにわたしという人間そのものがよく表れている、と思った。

「なんて軽率で、打算的で、人の気持ちを都合のいいように誘導しようとしている内容だろう。」

ちょっとしたプロパガンダのような風味もあって、気分が悪くなり寒気がした。


ずっと昔から思っていたことだが、作品を作ったり文章を書いたりする工程と、意中の相手をものにしようと企む工程は似ている。

10代の中頃からだろうか?
付き合う男なんて、馬鹿で単純であればあるほど都合が良いと思っていた。

〝少し″美人に見えるよう姿形を作り込んで、頭脳明晰だと思われるように言葉を交わし、セックスする時にはこれでもかと〝女らしく″振る舞えば万事オーケーなのだから。


わたしにとって、恋愛というのは家族と仲良く暮らすことや、美しい友情を育むことよりも遥かにイージーで、「こんなに簡単な人間関係、他にないのでは?」とさえ思っていた。

いまでも、恋愛や結婚のたぐいは互いの利益の追求なんだと思っている。
みんな、このクソみたいな世界での椅子取りゲームで少しでも有利なポジションを獲得するために、互いに腹の中を探り合っているのだ。


確か、16歳くらいのときだったろうか。

わたしには、自分の恋愛のあれこれを飽きもせず聞いてくれる親友がいた。見た目は地味で目立たないが、勉強ができて理解力がある少女で、わたしは彼女のことがとても好きだった。

ある日、いつものように話を聞いてもらっていたら、彼女がふとこんなことを言った。

「あんたは本当に悪い人間だから、いつか付き合ってた相手の誰かしらに後ろから刺されるかもしないね。」

と。

わたしは、まさか親友にそんなことを言われるなんて思ってもいなかったから、ショックだった。

そしてそのとき、自分のしていることが世間的に悪いことなのだと、はじめて自覚したのだった。

それからというもの、わたしは懸命に《誠実な人間》になろうと努力した。
誠実というのは、わたしにとってとても美しい概念だったから、そんな人間になることに憧れていたのである。

だが、どんなに頑張っても〝いわゆる″誠実な人間にはなれなかった。

わたしはどこまでも人に対して打算的で、自分の利益しか追求していない。
鏡の向こうに映っているのは、欲を満たすために《本能という暴力》を振りかざす動物。または、哀れでつまらない、ありきたりな女の姿だった。

この作品集のなかにも、しきりに《美しい人間》を目指すわたしの奮闘ぶりが書かれているが、裏を返せば「わたしは美しい人間ではありません。」と全世界に公表しているようなものである。

そう、わたしは世界中の誰よりも、自分が美しくないことを知っている。

そして、どんなに努力しても持って生まれた性質は変えられない。ということも知っているる。
だからせめて、他人の目に映る自分だけでも美しくあるよう、必死になっているだけなのだ。

わたしが美術を専門に志したのも、自分の〝美しくなさ″を払拭したかったからに他ならない。

絵を描いたりものを作っている時だけは、理想とする美しさや誠実さを創作物に投影できるような気がして、不誠実でペラペラな自分を許せるかも、と思った。

だが、いま見てみるとどうだろう。

その創作物でさえ、どこかに軽率さと薄っぺらさと不誠実さが漂っていて、美しくないわたしの姿そのものではないか。


わたしはよく自分の客人にこう囁くのだ。

「自分では嫌だと思っている欠点でさえも、誰かの救いになることがあるんです。だから、そんな自分のことも許してあげてくださいね。」

と。

この言葉は、その人に好かれるための方便であると同時に、本当は自分自身に言ってあげたいことでもある。

なんてご都合主義な人間だろう。
自分を許すということがどれほど難しいかわかっているのに、他人にはそれを平気で押し付けるのだから。


わたしが作る作品のほとんどは、ちゃんと体裁を整えてやらない限りゴミにしか見えない。

この作品集を作るにあたり、久しぶりに大学時代の絵たちをダンボール箱から出してみた。
山のように積み上げられた作品たちは、一見するとグシャグシャの紙くずのようで、自分でも、「これはゴミか?作品か?」と、しっかり確認してやらないと分からないくらいだ。


わたしが全身全霊をかけた(つもり)で作ってきたものはいつもゴミのようで。

積み上がった作品を見ていると、まるで本当の自分の姿を見せつけられているような感覚に陥り、心がザリザリした。

まだわたしは、自分がゴミ屑のような人間であることを肯定できるほど人生に対して開き直れていないようだ。

それでも、
「弱い人は無理やり強くなろうなんて思わず、弱いまま生きてほしい。」
とか、
「どんなに世間から目くじらをたてられるような人間でも、生きる価値はある。」
とか、平気で他人にのたまい続ける。

だけど、やはりこの言葉に嘘はなく、心からそう思っているのである。我ながら、全く不可思議極まりない。


あと5年くらい先の未来を生きる自分は、この作品集を見返してどう思うだろう?

結婚し、子供をもってなお、
経営者になってコレクターになってなお、それでも満たされない美への渇望は失っていないだろうか?

どうかせめて、この気持ちの悪い感覚と自責の念が次の作品への足がかりになってくれることを祈る。


そして今日も耳元で、未来のわたしが囁くんだ。

「ああ、見て、この景色。すごく懐かしいね。こんなときも、あったよね。

…ねえ、あなたは覚えてる?」

と。