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マタイ受難曲と青空と原発。

今日はまったく趣味の話なのですが、わたしが世界一好きな音楽を紹介します。

 

言わずもがなの超名曲・バッハのマタイ受難曲ですね。

 

 

マタイ受難曲 第一部
Nr.1 Chor 第 1 曲 合唱

 

Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen, 来たれ娘たちよ、ともに嘆け。
sehet-Wen?-den Bräutigam, 見よ-誰を?-花婿を、
seht ihn-Wie?-als wie ein Lamm! 彼を見よ-どのような?-子羊のような!
Sehet,-Was?-seht die Geduld, 見よ-何を?-彼の忍耐を、
seht-Wohin?-auf unsre Schuld; 見よ-どこを?-私たちの罪を
sehet ihn aus Lieb und Huld 愛と慈しみゆえにみずから
Holz zum Kreuze sel tragen! 木の十字架を背負われるあのお姿を!
O Lamm Gottes, uaschuldig おお、罪なき神の子羊
am Stamm des Kreuzes geschlachtet, 犠牲として、十字架に架けられた御方よ、
allzeit erfunden geduldig, たとえ侮辱されようとも、
wiewohl du warest verachtet. いつでも耐え忍ばれた。
All Sünd hast du getragen, すぺての罪をあなたはお負いになった。
sonst müßten wir verzagen. さもなければ私たちの望みは絶えていただろう。
Erbarm dich unser, o Jesu! 私たちを憐れんでください、おおイエスよ!

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この曲は、今日みたいに雲ひとつない青空の下で聴くのが一番いい。

 

seht-Wohin?-auf unsre Schuld; 見よ-どこを?-私たちの罪を

 

原発が爆発してから、日本人にはこの歌詞が大変お似合いになってしまったね。

そう思うのは、きっとわたしだけじゃないでしょう。

 

マタイ受難曲は、高校三年生のときの『宗教音楽』という授業のなかで読解をやりました。(キリスト教の学校だったので、高校三年でも音楽は全員必修だったのです!)

 

その頃から聞いているので、もう10年くらい好きなんですよね。

当時は、単純にその和音や通奏低音の美しさ、巧みなコーラスのキャッチボールなどに心酔していただけで、歌詞に心を通わせるようなことはありませんでした。

 

でも2011年以降、いよいよ、『私』は昔から背負い続けている『罪』から目をそらすことができないまでに精神的に追い込まれる運命に取り憑かれていきます。

 

『神は死んだ』ニーチェの神は死んだ、ってどういう意味ですか... - 文学、古典 | Yahoo!知恵袋

 

と、ニーチェが言ったのが1885年辺り。

神がいない世の中になって130年あまり経とうとしているのですね。

(あれ?意外と最近のことだったんだな。もっと時間が経っているものと錯覚していた。もしかして、神を追放した罰として、私は一日の時間を長く長く引き延ばされる運命を背負わされているのかもしれない。)

 

10万年先の未来の大気までも汚染させてしまう罪を背負った私たちが、神にもすがりたい思いを抱えながら生き続ける未来は一体どんなものなんだろう。

 

 

 

 ああ、私はどこで間違いを犯したのでしょうか?

 

高度成長期、欧米に追いつきたい一心で原発を作ってしまった時ですか?

 

それとも、大量破壊兵器なんて持っていなかったイラクに、一方的に戦争を仕掛けた時?

それとも、宣戦布告をしないでベトナムで代理戦争を始めた時?

 

それともベルリンの壁で、何の罪もない子供を撃ち殺した時ですか?

 

広島と長崎に原爆を落とした時?

 

それとも強制収容所でユダヤ人と障害者の600万人を詰め込んで殺した時?

 

不意打ちで真珠湾を攻撃をしてしまった時?

 

それとも、中国とロシアに勝利したことにあぐらをかいて、もっともっと世界を侵略しようと欲を出した時ですか?

 

…わたしがあなたを裏切って司祭へ引き渡してしまった時?

 

それとも、私たちが蛇にそそのかされてリンゴを食べた時?…

 

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わたしが本当に面白いなと思うことの一つとして、『罪の意識は世代や国境を越えて淡々と受け継がれる』というのがあります。

 

逆に、『幸せな気持ち』が2000年の時を越えて受け継がれることもあるのでしょうが、それは罪の意識の重さの前には煙のように消え去ってしまうような気がする。

 

罪の意識は重くて心から剥がれない。

 

『わたしはその時その場所にいなかった。だからわたしに罪はない。』

 

そう言うのは簡単ですが、その時・その場所にいなかったことを証明する手段など誰も持ち合わせていないんじゃないか。

 

少なくとも、知恵の実を食べてしまったわたしたちは、過去の罪について学ぶという最大の苦しみを背負わされているのだから。

 

 

 

とはいっても、わたしは歴史の勉強が好きですよ。

 

 

目の前に広がるこの景色と、100年前、1000年前、100000年前の景色…

 

それらがちゃんと地続きで繋がっていると信じられた時、わたしは初めて地に足をつけて生きることができる。

だけど、その代償として過去に犯した罪の記憶も引き受けなければならない。

 

要するに、生き続けるための対価として、わたしは罪を背負うのです。

 

そこから目をそらした瞬間に、人は生きる屍に成り下がる。

屍になるくらいなら、どんな罪だろうが自分のことと思って殺戮の瞬間を見つめ、『わたしが殺したんだ』ということにしたほうが何倍もマシでしょう。

 

あなたは違いますか?

 

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わたしには、この先一生をかけても償えない罪があります。

 

それは、原発が爆発したこの世界に子供を産み落としたこと。

 

わたしは自分の息子に、何と言ってこの罪を詫びればいいんだろう?

 

この世界が完全なるデストピアであることをまだ知らない彼に、どんな言葉をかけて『生きる』方法を伝承すればいいのですか?

 

それでも、この世界は美しいのだということを、伝えるすべは残っているのでしょうか?

 

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…こんな罪だらけの世界で、愛を持って生きるとはどういうことなんだろう…。

 

私はいつも想像する。私の命が失われる、その最期の瞬間の光景を。

 

 

夜、一人で家路についていると、私は後ろから殴られて地面に崩れ落ちる。

 

そして手酷く強姦されたあと、体中を何十ヶ所も刺されて殺されるんだ。

 

…ああ、

 

首や、胸や、腕や足が熱くてたまらない。

 

脈がドクドクと脈打って、鮮やかな血液が地面に広がり水溜りを作っているのが、分かる。

 

もう首を動かすことはできないけど、最後の力を振り絞って眼を動かした。

 

そして、私を現在進行形で殺そうとしている人間の顔を見ようとするのです。

 

そしてわたしは思う。

頭の中に、目の前にいるただ一人の人間と、神の姿だけを映し出して。

 

『ああ、わたしが死ぬことで、どうかこの人の苦しみと悲しみに、誰かが気づきますように。

そして、誰かが救いの手を差し伸べてくれますように。

神様、どうかお願いします。』

 

 

わたしが愛をもってこの世界を生きるとしたら、きっと終わりはこんな景色なんじゃないのかな。

 

これはただの想像です。

 

だけど、毎日毎日、欠かさずにしている想像です。

体の痛みも、脈打つ鼓動も、血の鮮やかさも、わたしはありありと知っている。

 

 

 

『知っている』って、決して現実で見たり聞いたりしたことだけを指すのではないのですよ。

 

100人いれば、100通りの『知』の獲得の仕方があり、過去や未来への旅、更には空想世界への旅だって、現実の経験に劣るものではない。

 

 わたしは決して、過去と未来と世界中の罪に触れることを恐れない。

 

(腕力を持たない女性にとって、『恐れない』ということが、もしかしたら最大の武器なのかもしれません。)