わたしの命の燃やしかた。

 

昔から川の夢をよく見てきました。

  

その夢につられてか、1人暮らしをするときには必ず川の近くに住むようになっていたほど。

夜、散歩しているときには橋の上から川を覗き込んで。

 

そうすると、頭のなかが空っぽになってとても気持ちが良かったのです。

 

 

そのあと、身近な人が水死する事故が相次ぎました。

 

死んだ人たちの最期が知りたいからなのか、わたしは水の中で溺れる夢を見るようになりました。

 

この間も、海で溺れる夢で目が覚めて、水の気配があるのにここはベッドの上で、自分が生きていることが不思議に思えて涙が止まりませんでした。

 

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恋人と息子と3人で眠っていたときは、こんな夢を見ました。

 

恋人と2人で最寄りの駅に降り立ちました。でも、そこはわたしが知っている駅ではなく、家までの帰り道が分からないのです。

 

でも、恋人がいてくれるから大丈夫。ついていけば家に帰れるだろう。

 

そう思っていたら、恋人が半透明に透けて消えてしまったのです。

 

わたしは知らない土地で1人きり、家に帰る方法も分からず呆然としている。

 

そこで目が覚めました。

 

隣に恋人がいて、ホッとして涙が止まりませんでした。

 

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夢のなかでいつも、わたしは行き先の分からぬ旅をしている様子。

 

それに引き換え現実では、家までの帰り道も知っているし、家族はいるし、水に溺れることもない。

 

だけど、どうにもこの生活に現実感が持てなくていつも泣いているのです。

 

『餓えたこともないくせに生き辛そうなツラしてんじゃない!』

 

と、夫に言われたことがあって本当に死んでやろうかと思いましたが、わたしには守るべき絵たちがあるから死ねないな、と思ってやめました。

 

 

人のためを思って自分の人生を生きる、という生き方はわたしには出来ない。

 

でも、わたしの元にある絵たちは、愛されてさえいれば人の命よりも遥かに長く生きることができる。

 

だから、この絵たちだけは、わたしの死後も生きさせなきゃならない。それこそがわたしの生きる意味で、絵を愛する者の責任だと思っているのです。

 

 

わたしにとって『生きる』とは、『芸術文化の延命に命を賭けること』なんだと。

 

そのことに気付けたときは嬉しかった。

何回夢の中で死んで目が覚めても、現実でやるべきことに命を燃やすことができるから。

 

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 (1月の初頭にも、また新しい作品を迎えます。わたしのサロンに合わせて作ってもらったセミオーダー品。出来上がりがいまから楽しみです。)

 

(ああそれと、どんなに夫と衝突があっても、わしは夫のことを深く愛しているようです。

それは、本人の人格が云々というのを通り越して、彼のことを思い続けた自分の心の歴史を裏切れないからなのでしょう。 

夫婦の間にあるのは、愛というよりむしろ情なのかもしれません。)