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〝かけがえのない人になんかなりたくない〟病気。

 

「君は僕にとってのかけがえのない人。

君は僕の半身なんだ。

誰よりも大切な人なんだ…」

 

ロマンチックで、やたら甘い匂いのする言葉。だけどどこか使い古された腐臭がする。

 

気のせいか?

 

それに気づいた途端、すべてがつまらないものにすり替わってしまう。

 

なぜなんだ?

 

いつも思っている。「誰かのかけがえのない人になんて絶対になりたくない」って。

 

「わたしにとって換えの効かない人間など、わたし一人だけでよろしい!」

それに、もしもこの世に〝かけがえのない人〟が山のようにいたら、とっくに世界は終わってる。

 

誰も、そう思わないのだろうか?

 

 

わたしの師匠は化粧の仕事についてこう言った。

 

「いいかい、僕たちのように人に触れる仕事を生業にする人間は、決して心に波があってはいけない。

 

決して幸福にも不幸にもなってはいけない。

 

いつも波のない平坦な心を保っていなさい。

でないと、君の心のすべてがその手を通して相手に伝わってしまうよ。感情に左右されては、それはプロの仕事になり得ない。」

 

幸福にも不幸にもなってはいけない

 

 この言葉は自戒になったし、とても美しい言葉だと思った。その後のわたしの全ての行動を支配するに十分な力を持っていた。

 

人間はほんとうに勝手な生き物だと思いませんか?

 

自分が不幸なときは、幸福で満たされている他人が恨めしいし、自分が幸福なときは、不幸面で場の空気をどんよりと濁すやつをとことん煩わしく思う…。

 

 

だけど、そんな憎むべき人間的生活のなかで、日々淡々と平常心を保っていれば、何が起きても恨めしくも煩わしくもない。

 

ただ透明無色な自分でいられる。(これは本当に魅力的なことだった!)

 

何色にも染まることができることのみがこの仕事における才能で、それこそがプロフェッショナルの証。わたしはそう信じている。

 

特別なものなど何もない人生。すべのものは代替可能だと思える人生。…長い目でみれば、わたし自身の代わりでさえごまんといるのだ。

 

そう考えるにつけ、自分に対しての愛情の質は変容していった。

〝かけがえのないわたし〟が死んで、新しく生まれたのが〝筒のような、橋のような、上流から下流にただ流れていく水のような、どこにでもある景色のようなわたし〟だった。

 

わたしはただの〝機能〟になって、自分の中を通過していくもののためだけに生きる。

 

わたしの中を、毎日色々なものが通過していく。

それは口に出した言葉であったり、言葉にならずとも溢れてくる他人の感情であったり、会ったこともない誰かのストーリーであったり、遥か彼方に追いやられて消えていった文化だったり、得体のしれない、妖しくて艶やかな美であったりする。

 

これはとても〝幸福〟な生き方だと思った。そしてわたしの中を流れる水はいつも澄んでいて、美しい。

 

役割を自覚さえすればなにも思い悩む必要などないのだからそれも当然。この世の正解もお金も美しさも、役割通りに生きればすべてついてくるような気がしている。

 

「生きるのは仕事なんだ。ただ普通の仕事と違うのは、〝どこぞの誰に与えられたのか分からない仕事〟であるということだけ…。」

 

 

 

だけどそれでも、生まれたばかりの新鮮な〝弱さ〟が時々顔をのぞかせて煩わしい。

 

辛いことがあったとき、大切なあなたに会いたいと思う。

いまだ心の底に存在している幸福も不幸も、すべてひっくるめて共有できたらどんなに幸せか!

 

そして願いが叶うなら、あなたの心臓の音を聞きたい。

わたしのなかにいつも棲んでいる、神々しい獣のような人たちの心臓の音を。

 

きっとかけがえのない幸福な思い出になって、わたしの命が終わるまで生きる力を与えてくれるだろう。

はあ…これがわたしの大嫌いな〝かけがえのない〝〝幸福〟のまやかしか!

 

こんなに切実に、人に受け入れられたいと感じるのは久しぶりで、いやあ、困った…。

 

でももう一つ怖いことがある。こんな未熟な弱さでさえ、きっとわたしは仕事に取り込んでしまうという予感。

 

喉元過ぎれば、幸福も不幸もこねくり回して忘れるだろう。

そしていつか、筒なり橋なり川の流れなり、わたしの〝役割〟のためにそれを使う日が来るだろう。

 

そしてその瞬間、それまでかけがえのない幸福だと思っていたものが途端につまらない凡庸なものに成り下がる。

まだ起きていないことでも、ありありと眼に浮かぶ。

 

でもこれが生きるということ、人生をかけて仕事をやりきるということ。

 

〝かけがえのないものなんてこの世になに一つないのだから…〟

 

知ってる。その通りだよ、未来のわたし!

 

 

こんなふうに生きる人間をなんて呼ぶか知ってるかって?

 

〝ワーカーホリック〟

またの名を

〝ありきたりでつまらない女〟

 

 

そう、どこにでもいる、ありきたりな人間のこと。

 

それでもわたしはありきたりでつまらなくて代替可能な人間になりたい。

 

誰の眼にも映り込まない、凡庸な景色のような人間に。